バシッといこうぜぃ blog

バロック音楽や弦楽合奏曲を中心にいろいろ。

ハイモヴィッツがチェロで奏でるジミ・ヘンドリックス「星条旗」の響き

 マット・ハイモヴィッツMatt Haimovitz)の新しい3枚組のアルバムがNMLで公開されたので聴いてみた。今回のアルバムには「軌道〜現代チェロ独奏作品集1945〜2014」というタイトルが付けられている。
Various: Orbit
 タイトル通り、このアルバムに収録されているのは1945年のダラピッコラ「シャコンヌ、間奏曲とアダージョ」から2014年のフィリップ・グラス「軌道」に至る22の作品だが、第二次大戦後の69年間を無伴奏チェロのための作品で振り返るというコンセプトなのかもしれない。その中に「Anthem, "The Star-Spangled Banner"」というのがあって、何かと思ったらジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix)が1969年のウッドストック・フェスティヴァルで演奏したアメリカ国歌「星条旗」をチェロ1本で再現したものだった。

 1969年と言えばベトナム戦争のまっただ中で、ジミヘンの「星条旗」はエレキ・ギターの様々なテクニックを駆使して、爆撃機の空襲や逃げ惑う人々を描いた抗議の音楽だと解釈されたそうだ。ウッドストックでジミヘンが演奏している映像を観ると、そのパフォーマンスに込めたエネルギーの強さに圧倒される。

 ハイモヴィッツの演奏は描写部分の再現度が必ずしも高いわけではないが、それは楽器の違いからくるものであり仕方のないところだろう。それよりも、ジミヘンが訴えた戦争の邪悪さや愚かさを、完全に自らの音楽として伝えているところが素晴らしい。時にノイズやスル・ポンティチェロの音色がエレキ・ギターであるかのように響くのだが、とってつけたようではなく、そうあるべき「表現」として聴こえてくる。クラシックのプレイヤーであろうがロック・ミュージシャンであろうが、同じ音楽を共有できるなら、出て来る音は自然と同じ方向を向いてくるのではないか。
 ウッドストックでは「星条旗」に続いて「パープル・ヘイズ」が演奏された。それならばと、ハイモヴィッツの「星条旗」に続けてクロノス・クァルテットの「パープル・ヘイズ」を聴いて、ハイモヴィッツの「星条旗」との間に何のギャップも感じないところに驚かされた。世の中にはこういう音でないと表現できないものがあるに違いない。それにしても、ジミヘンの音楽が持つ普遍性というのをこんな形で知ることになるとは。

フランシス・モンクマンが奏でるラモー

 うちでは、朝6時から始まるNHK-FM古楽の楽しみ」が目覚まし時計の代わりだ。先週は「ラモーの鍵盤音楽を中心に」という特集で、1月14日にはスコット・ロスやオリヴィエ・ボーモンの演奏に混じって、スカイ(Sky)の初代キーボード奏者フランシス・モンクマン(Francis Monkman, 1949- )が演奏した「ガヴォットと6つのドゥーブル」(「新しいクラヴサン曲集」より)が放送された。

 この演奏はスカイのセカンド・アルバム「Sky 2」に収録されているものだが、ロック・バンドのためのアレンジではなくオリジナル通りのチェンバロ版だ。1980年4月にリリースされたスカイのセカンド・アルバムはイギリスのチャートで1位を獲得したから、普通のラモー・アルバムに収録されている演奏よりも多くの人に聴かれているのではないかな。
SKY 2
 Wikipediaによるとモンクマンはロンドンの王立音楽大学(Royal College of Music)出身で、検索してみたら1969年にはイギリス・ハープシコード協会からレイモンド・ラッセル賞を授与されている。現代ピッチではあるけれども、しっかりとした構成感をもった演奏なのは、ちゃんとした基礎があるからなのだろう。

 ところで、この作品は往年の巨匠オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885-1973)がオーケストラ用に編曲している。1967年の編曲というからモンクマンの受賞の2年前のこととなる。クレンペラーのライヴ録音を収めたCD(Testament SBT1482)の解説書(PDF)によると、当時この編曲は賛否両論だったらしい。テレグラフ紙には「テーマの再現を強調するあまり変奏部分での上品な装飾音がわかりにくくなってしまった」と書かれている。

 一方、ボブ・ジェームスのラモー・アルバムに収録されているシンセサイザー版では、様々な音色によって変奏ごとの特徴が手に取るようにわかるのがおもしろい。カラフルに彩られた、最高に楽しいラモー。

楽器の未来、音楽の未来

 少し前に、WIRED.jpで未来の楽器というのが話題になっていて、おもしろそうなので見に行ってみた。

 今から200年後の「2214年の楽器」ということは、ドラえもん誕生からおよそ100年後の楽器ということになる。「Future Instruments」のサイトを見ておもしろかったのは「200年後のピアノは」とか「200年後のヴァイオリンは」というような、既存の楽器の進化形について語る人があまりいないことだ。そして、13名の中には音楽関係者に混じって建築家やデザイナーなどもおり、音を鳴らすための道具という概念を越えて、音にまつわる体験を伝える「メディア」として楽器を語る人もいて、当然そこでは現在とは違った音楽のあり方が存在すると仮定されている点が興味深い。たとえば、ウェブデザイナーのMike Guppyは「人間はただ音楽を消費するのではなく、参加するようになる」と言い、建築家の隈研吾は「いつの日か、私たちはすべての音が私たちの周囲に存在すること、そして私たちが生み出した音ではなく、そこから見つけ出した音こそが一番重要なのだということを理解するでしょう」とした上で、ジョン・ケージの「4分33秒」的な音楽観を披露している。
 2214年ともなると、バロック音楽は4世紀以上も昔の音楽ということになる。その時、仮に音楽のあり方が変わっているとするならば、過去の作品はどのように扱われるのだろうか?時とともに研究は進むだろうから、多くの事柄が解明されているに違いない。しかし「演奏」はどうだろう。今と同じように、人間によってリアルな楽器を使って演奏されるのだろうか?それとも、人工知能を持ったシステムによって、「無菌室」的な環境の中でバーチャルに再現されるのだろうか。
 TPPなどで法律が大幅に改正されていなければ、今作曲されたばかりの曲も2214年には著作権が切れていて、「クラシック」と呼ばれる範疇に入っていることだろう。録音や映像などは大量に残されているだろうし、今よりも自由に扱うことができるはずだから、「当時どのような演奏がなされていたのか」という問いには簡単に答えることができそうだ。しかし、それに囚われると、反って音楽の幅を狭めることになりはしないか。そこにオーセンティシティやオーソリティはあるかもしれないけれど、バーンスタインが「全ての音楽は創造だ」という言葉で指摘したようなものはないように思われる。
 過去の音楽は録音や映像を消費することでまかなわれてしまうような時代が来ないことを祈るばかりだ。音楽というのは生命体だからな。
 

ヘレヴェッヘがモダン・オーケストラと奏でるシューマン「交響曲第4番ニ短調」

 かつてエリアフ・インバルマーラーブルックナー交響曲全集を録音した際のパートナー、フランクフルト放送交響楽団は、2005年以降「hr交響楽団 hr-Sinfonieorchester」という名称になっている。以前ジャン=クリストフ・スピノジやエマニュエル・アイムの指揮で演奏したラモーやヘンデル、リュリなんかを紹介したように、バロック音楽もきちんとこなせるモダン・オーケストラだ。
 そのhr交響楽団YouTubeに自前のチャンネルを持っていて、先月フィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe, 1947- )が指揮したベートーヴェンシューマンブラームスなどのヴィデオが公開されていた。中でもシューマン交響曲第4番 ニ短調 Op.120」は特に素晴らしかった。

 第1楽章序奏のヴィブラートを控えめにした響きの中でモチーフが積み重ねられ、その頂点でスラー・スタッカートのアウフタクトに導かれ3つの下降する8分音符が現れるところは、それまでの言説を「念を押しながら」繰り返しているように感じられて、とても印象的だ。その後もヴィブラートで響きが過度にリッチになることを避けながら、ひとつひとつのモチーフを重ね合わせることで作品に語らせていく姿勢が貫かれている。
 そもそもヘレヴェッヘ古楽器オーケストラ「シャンゼリゼ管弦楽団」とシューマン交響曲や協奏曲を1990年代の後半に録音しており、そこでも交響曲第4番は改訂版の方で録音していた。hr交響楽団との第4交響曲の演奏はCDよりも落ち着いているので、曲の展開を追いやすく、作品の姿が捉えやすい。同じモチーフが楽章を越えて成長していく様を聴いていると、シューマンがこの作品に「交響的幻想曲」というタイトルを付けようとしたことも、あながち間違ってはいなかったのではないかと思った。まあ、聴いてみなはれ。
 

アーノンクールが奏でるJ.S.バッハ「管弦楽組曲第1番ハ長調」

 12月6日はニコラウス・アーノンクールの誕生日だ。1929年生まれだから今年85歳。公式サイトを見るとコンサートの回数がずいぶんと減ってきているが、来年はコンツェントゥスとベートーヴェンの「運命」や「ミサ・ソレムニス」をやるようだ。ここのところ、年に数回コンツェントゥスとベートーヴェンを演奏しており、録音物でもよいのでいつかその演奏を聴く機会があればと願っている。

 YouTubeを眺めていたらアーノンクールとコンツェントゥスによるJ.S.バッハ管弦楽組曲」全4曲がアップロードされていた。もう何年も聴いてない演奏なので「BGMとして流しておこうか」くらいの気持ちでつけておいたら、いつの間にか真剣に聴いている自分に気がついた。

 全体的にテンポが遅めだったり、8分音符を16分音符に、あるいは連続する16分音符を32分音符にしたりと、時代を感じさせるものではある。特に、第1番ハ長調BWV1066は「詩的」に、どこまでも穏やかな外見が保たれているにもかかわらず言いたいことははっきりと言っているので、かなり特徴的な演奏と言えるだろう。しかし、どこまでも「音の形を紡ぎ出す」という姿勢を貫いた時に聴こえてくる作品の姿は、これまで自分が信じ、目指してきた道の向こうに見てきたものであった。
 今、くにたちバロックアンサンブルでは来年の演奏会へ向け、ヘンデルやヘレンダール、ジェミニアーニ、ヴィヴァルディの作品を練習している最中だ。来年の演奏会では、音楽をテンポで追い詰めるのではなく、音の形を積み重ねることで何かを語るような、そんな演奏をしてみたい。
 

ヴィヴァルディ「弦楽のための協奏曲 ハ長調 RV110」

 今年の3月にエントリーをしたためたヴィヴァルディ「2本のトランペットのための協奏曲 ハ長調 RV537」だが、くにバロの第12回演奏会でこの作品を演奏することが決まった。

 先のエントリーからリンクを張った論文にもあるとおり、RV537の第3楽章は「弦楽のための協奏曲 ハ長調 RV110」第1楽章の焼き直しであり、第2楽章はRV110の緩徐楽章をそのまま流用している。

 RV537はバルブのないナチュラル・トランペットのための協奏曲であるため、トランペットが演奏する間は、たまにト長調に移るくらいで、出来るだけハ長調に留まろうとしているように感じられる。最も頻繁に和音が変化する第3楽章の中間部(第58〜80小節)ではトランペットは黙ったままで、音楽は弦楽器に委ねられる。

 一方、この楽章の基となったRV110は「弦楽器のための」協奏曲なので、より広範囲に動き回っているのが興味深い。

 9月にこの曲を練習した際、和音を変え転調しながら同じモチーフを何度も繰り返すRV537の中間部が、何か別の作品で同じような体験をしたなと思った。その時は、どの曲に似ているのかわからなかったが、後でベートーヴェン交響曲第8番 ヘ長調」第1楽章の展開部に似ている箇所があったことを思い出した。ほんの一瞬だけど、下のヴィデオの45秒から1分くらいのところ。

 ヴィヴァルディのRV537は10分に満たない作品ではあるが、なかなか侮りがたい内容を持っている。次に音を出すのが楽しみになってきた。
 

スヴェトラーノフとNHK交響楽団が奏でるカリンニコフ「交響曲第1番 ト短調」

 NHK交響楽団を鳴らすことにかけて、エフゲニー・スヴェトラーノフ(Svetlanov Evgeny, 1928-2002)以上に長けた指揮者はいなかった。中でも彼がN響を指揮したヴァシリー・カリンニコフ(Vasily Sergeyevich Kalinnikov, 1866-1901)の「交響曲第1番 ト短調」は、希有の演奏として語り継がれるだけの価値がある。

 スヴェトラーノフが指揮すると、大音量になっても音が割れず、小さな音も透明感に溢れ、普通ならどっちつかずになりがちな中音量時の音の輪郭がはっきりしているのに驚かされる。オーケストラはどの音も、どのフレーズも、力むことなく、また先を急ぐこともなく、あるべきところにあるべき響きを鳴らしている。なによりも、響きの中に作品の姿が立ち現れてくるのがすごい。
 演奏が終わると同時にブラボーが飛んでいるが、舞台を立ち去る前にオーケストラに向かって交響曲のスコアを高く掲げている姿を見ると、指揮者にとっても会心の演奏であったのではないか。このコンサートは何を犠牲にしても行くべきだったなと、20年を過ぎた今でも後悔している。