スティーブ・ジョブズ追悼
私はiPadユーザーではあるが、熱心なマカーではない。なので、今年(2011年)の8月25日にスティーブ・ジョブズがアップルのCEOを辞任するというニュースを聞いたとき、「もしジョブズが亡くなったら、なんらかの感慨を抱くだろうか」と思った。
- 速報:スティーブ・ジョブズがAppleのCEOを辞任―後任はティム・クック
〔TechCrunch Japan - 2011年8月25日〕
http://jp.techcrunch.com/archives/20110824steve-jobs-resigns-from-apple/
ジョブズの訃報を知ったのは、朝方のニュースで、だった。auのIS06という世間的には極めてマイナーな(しかし、とても気に入っている)Androidスマートフォンのニュース・アプリで知ったので、オバマ大統領の印象的な声明の中にある「much of the world」からは、残念ながらはずれていたということになる。
- President Obama on the Passing of Steve Jobs: "He changed the way each of us sees the world."
〔The White House - 2011年10月5日〕
http://www.whitehouse.gov/blog/2011/10/05/president-obama-passing-steve-jobs-he-changed-way-each-us-sees-world
apple.comを訪れてみると、そこにはジョブズのポートレートがモノクロで掲載されており、「Steve Jobs 1955-2011」とあった。さらにページを進んでいくと、アップルからの追悼文が掲載されていた。しかし、そこには「いつ亡くなったのか」ということが書かれていなかったため、「もしかしたら、アップルの発表よりも、ずっと以前に亡くなっていたのかもしれないな」という疑念が生まれはしたが、程なく思い過ごしであることがわかった。
- Remembering Steve Jobs
〔Apple〕
http://www.apple.com/stevejobs/
私の中では、ジョブズは実業家というよりは芸術家である。それも、新しくて快適な生活のスタイルを生み出していくようなタイプの芸術家だ。彼の手によるiPadはいわゆる「ガジェット」ではなく、生身の人間とネットワークの向こう側にあるコンテンツをシームレスに結びつけようとする「魔法の何か」であるように感じる。
それは「何か」であって、モノではない。いや、今の「iPad 2」はモノかもしれないが、ジョブズが最終的に実現しようとしていたのは、実態のない「何か」っぽいものなのではなかったのか。私にとってジョブズの死とは、この実態のない「何か」というものが、この先もずっと想像上の「何か」でしかないということなのかもしれない。
ネットには、ジョブズ逝去に対する極めてたくさんのコメントが流れている。素直に感謝や哀悼の意を表するもの、発表されたばかりの「iPhone 4S」について、「4S = for Steve」というように読み込もうとするものなどさまざまである。もちろん、このつまらないエントリーもそのひとつだ。
それらの中で特に印象深かったのは、検索ボタンの下に「Steve Jobs, 1955 - 2011」とだけ書かれたGoogleからのメッセージである。
「Steve Jobs」からは「http://www.apple.com」へリンクが張られており、そこをクリックするとジョブズのモノクロ・ポートレートが現れる。
Googleは、最もGoogleらしいやり方でジョブズの死を悼んでおり、そのメッセージからは、Googleのジョブズに対する限りない尊敬の念が感じられるような気がしてならない。
世界は、また一人偉大な芸術家を失ってしまった。だが、個人として活動している音楽家や画家とは違って、彼の精神はアップル社に引き継がれていくのだろう。では、彼が想い描いたものはどうか?実態のない「何か」が実現し、皆がネットワークの「そのまた向こう」にある音楽を、「聴く」のではなく、衣服を着るように、香水をつけるように、あるいは身体にまとわりつかせるようにして楽しむようになるのだろうか。
「ハングリーであれ」「愚かであれ」というジョブズのメッセージは、シンプルで素晴らしいものではあるが、大人の世界で実践していくのはなかなか難しい。おそらく、凡人である私に出来ることといえば、このふたつの言葉をお題目のように唱えながら、自分の信じる道を自分のやり方でぷらぷらと進んで行くことぐらいなんだろうな。
ジョブズ氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌。