バシッといこうぜぃ blog

バロック音楽や弦楽合奏曲を中心にいろいろ。

 21世紀のオーケストラとモーツァルト

今から19年前の1991年、モーツァルト没後200年の記念の年に、老舗の楽譜屋さん「アカデミア・ミュージック」の情報誌『アカデミア・ニュース』に一文を寄稿させて頂きました。
当たり前の話ではありますが、当時何らかの反響があったわけではありません。でも、ある方より「本当に茂原さんって感じの内容ですよね」という感想をいただいたことは忘れることができません。おそらく、今でも自分がバロック・アンサンブルの指揮台に立っているのは、この文章に書いた内容についての答えを探し続けているからなのでしょう。
今読むと、その文体の稚拙さに赤面するほどではありますが、こちらもせっかくなのでこのブログに再々掲しておこうと思います。あれから19年、まだ試行錯誤の状況が続いています。

 『音楽の友』1991年2月号に掲載されたサイモン・ラトルへのインタヴュー記事は、まことに興味深いものであった。この中で彼は「レパートリー、プログラミング、演奏スタイル、全ての面で、現代のオーケストラにはフレキシビリティと新鮮さが求められている」とした上で、「21世紀のオーケストラ」として生き残るためには「バッハからブラームスまで同じようなスタイルで演奏することは許され」ず、現代楽器でバッハやモーツァルトをどう演奏すべきかを「古楽器の演奏スタイルから、本当にいろいろなことを学んだ」と述べている。ラトルは今オーケストラ・オブ・ジ・エイジ・オブ・エンライトメントと共に、モーツァルトのオペラ(今年は〈コシ・ファン・トゥッテ〉)に取り組んでいるそうだが、古楽器の奏法や音楽観をモダン・オーケストラにどう応用しているのか、具体的な話をぜひきいてみたいものだ。

 「古楽器の演奏スタイル」(といってもいろいろあるわけだが・・・)をモダン・オーケストラに持ち込むには、想像以上の多くの困難やトラブルを覚悟しなければならない。なぜなら楽器や奏法の違いを克服するだけではダメで(これはただのサル真似)、音楽についての意識の変革を迫られる − 場合によっては今までの音楽体験を捨て去らなければならない − からだ。例えば弦楽器のヴィブラートについて考えてみよう。現代の弦楽器教育は、ほとんどの場合ソリストの育成を目的としているため(ブリュッヘンが嘆いていたなァ)テヌート・レガート・ヴィブラートを音楽の基本とし、できるだけ大きな音によって長いフレーズを歌うことに主眼が置かれているように思われる。そのためヴィブラートは奏法のひとつとしてではなく、すでにあるものとして音に対する美意識の根底に塗り込められてしまい、ヴィブラートを抑制・コントロールして音楽することに強い抵抗感が生じるのである。さらに、短いフレージング、「語る音楽」という概念、現代では忘れ去られてしまった奏法(弓によるヴィブラートなど)の復活などオーケストラにとって解決しなければならない問題は数多く存在するにもかかわらず、そのほとんどが彼らにとって受け入れがたいものであるに違いない。そして、そのすべてを解決したとしても、どう音楽するかという問いに対してはまだ何も答えていないのである。

 フランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラが初来日した際に演奏した〈プラハ〉シンフォニーK.504 のサウンド − 特に序奏部において − が、ニコラウス・アーノンクールの演奏(コンセルトヘボウ・オーケストラとのCD)とそっくりだったのでビックリギョーテンしたことがある。古楽器オーケストラでなければモーツァルトの音楽を再現することができないとするブリュッヘンとは対照的に、アーノンクールは「モーツァルトの楽器法を研究してみれば、現代の楽器でも多様な音色と演奏法が発見でき、また活気ある表現が可能である」と言い、もっとも早い時期から積極的にモダン・オーケストラと「演奏スタイル」の追求に意欲を燃やしていた。彼にとって大切なことは楽器の音響ではなく「音楽の思考法」「音楽そのもの」なのだから、単にサウンドが似ていることについてあーだ・こーだと言っても意味はないのだが、前述した数々の困難を考えると、アーノンクールとコンセルトヘボウ・オーケストラ(さすがにウィーン・フィルとはトラブったらしい)が成し遂げたことはまったく非凡としか言いようがない。バーンスタインハイティンク、シャイーといった大指揮者と仕事をするかたわら、古楽器奏者との共演を積極的に推し進めるコンセルトヘボウ・オーケストラは、ラトルのアイディアを10年以上も先取りしていたのだ。

 21世紀へ向けてモダン・オーケストラによるモーツァルト演奏はどうなっていくのだろう。すべてのオーケストラが古楽器のスタイルで演奏するようになるのだろうか。あるいは未だ見出されていない第3の方法を含め、いろいろなスタイルが乱立するのだろうか。古楽器オーケストラによる演奏が全盛期を迎えている現在、多くの聴衆がモダン・オーケストラの「十年一日の演奏」にソッポを向け始めている。だから指揮者やオーケストラの人たちが従来とは違った音楽のあり方に目を向けるのは理解できることだとしても、「何が何でも新しいものでなければダメなのだ」とか、「古楽器による演奏でなければモーツァルト演奏にあらず」といった短絡的な発想の発現を聞くと何ともいえず悲しい気持ちになる。我々はヨゼフ・クリップスパブロ・カザルスの優れたモーツァルト演奏からまだまだ学ばねばならないことがあるし、グレン・グールド(おお、なんと偉大なモーツァルトの理解者!)に関してはほとんど手付かずの状態なのだから。「新しい」「古い」といった形容詞の中に「演奏スタイル」の優劣があるという口振りの話はもうウンザリだ。モーツァルトは「演奏スタイル」というファッションのために曲を書いたのではない。これからのオーケストラに求められているのは「演奏スタイル」の提示ではなく、そのスタイルを超えてモーツァルト音楽に積極的に奉仕する媒体としての役割なのだ。ラトルやアーノンクールの発言が常に音楽最優先であることに心から敬意を払おう。それはあたりまえのことだと思う人がいるかもしれないが、そのあたりまえのことを忘れてぼくたちはついカッコイイことを言いたくなってしまうからね。

 ところで、日本のオーケストラは「21世紀のオーケストラ」としてどうやってサヴァイヴしていくつもりなのだろう。
 
(「アカデミア・ニュース」No.112 1991年3月号掲載)