バシッといこうぜぃ blog

バロック音楽や弦楽合奏曲を中心にいろいろ。

 デオダ・ド・セヴラック

 日仏会館ホールでデオダ・ド・セヴラックの歌曲・シャンソンを聴いた。

 はじめてセヴラックの作品を聴いた時のことは忘れてしまったが、かつてアマチュア合唱団の副指揮者をしていた頃、それもフォーレエルガーの合唱曲を指揮していた頃なのではなかったかと思う。自分にとっては完全に未知であったフランス近・現代の作品を、かたっぱしから楽譜を読んだりCDやレコードを聴いたりして、今でもお気に入りのカスティヨン(Alexis Castillon, 1838-1873)やデュリュフレなどの作品と共に知ったのではないか。
 昨晩、ようやくセヴラックの作品をコンサートで聴くことができ、生の響きとしてそこにある彼の音楽は「猫」のようだな、と思った。それも人懐っこく、向こうの方からじゃれついてくる猫。そして、その人懐こさにこちらが少しでも当惑したりすると、その音楽はするりと足下をすり抜けて、振り向きもせずにどこか遠くへいってしまう、そんな気がした。
 セヴラックの音楽が斯様に身体的であるということにちょっとした驚きを覚えると共に、ロラン・バルトの「声のきめ」というエッセイの中で言及されているエピソードを思い出した。パンゼラとフィッシャー=ディースカウの歌を比較しているアレである。

 思い出したきっかけは、声の方ではなく、そこで奏でられていたピアノの響きだった。
 昨日のコンサートで弾かれたのはもちろんモダンなグランド・ピアノである。それが奏でる響きは、画一的な子音のあとに擦れることなく鳴り続ける安定した母音の響きだ。では、もしそれがシュトライヒャーやエラールのような楽器だったとしたら、声楽家の声からだけではなく、ピアノの音からも様々な「ざわめき声」がじゃれつくように聴こえてきたのだろうか。
 と、ホールからの帰路にそんなことをつらつら考えながら満員電車に押し込められたとたん、セヴラックの音楽はするりと足下をすり抜けて、こっちを振り向きもせずに消えてしまった。
 ああ、せめてチェシャ猫のように、不気味な笑いのひとつも残してくれたら良かったのに!