「記録」と「記憶」
「記録」と「記憶」は違う。記録は残すもの、記憶は伝えるもの。記録はモノとして残せば残るかもしれないけれど、記憶というのは身体的なものだから時間が経つと薄れていく。こう書くと髪の毛も同じで、頭のてっぺんにも一抹の不安を覚えざるを得ない。いや、それは関係ないか。デジタルアーカイブズのイベントなんかに行くと、たまにこのふたつの言葉をごっちゃにして使っている場面に出くわして、そういうのってどうなのかと思ってみたりする。もっとも、デジタルアーカイブズ・システムの機械的なところの根本、つまり半導体レベルでは「記憶」と言っているのだけど。ほら、パソコンにも「メモリー」っていうのが入ってる。
で、すでに記憶があやふやになってしまったことなのだが(あらま!)、日本のどこだかの地方で女性たちが集まり、供養のため、過去に起こった地震被害の様子を一斉に唱えている場面をテレビで見る機会があった。その供養が終わった後、ひとりの女性が、過去の地震被害のことを自らのことのように悲しんでおられたのが印象的だった。同じ文言を「節(ふし)」に載せて唱えることで、感情的なものを共有し、伝承していくことができるんだな。「歌」というものが持っている潜在的なパワーを実感した瞬間。
ブルース・チャトウィンの『ソングライン』の中にこんなことが書かれている。
彼はつづけた。白人がやってくる以前、オーストラリアでは土地を持たない者はいなかった。だれもが私有財産ととして、祖先の歌と、その歌が通る道筋を受け継いでいたからだ。歌に書かれた詩が土地の権利証だった。氏を他人に貸したり、それと引き替えに借りたりしてもよかった。ただ、詩を売ったり捨てたりするのはいけないとされていた。
仮にカーペット・スネーク族の長老たちが、そろそろ一族の歌を始めから終わりまで歌う時期だと考えたとする。招集のメッセージが方々の道をめぐり、歌の所有者たちが、“集会の場”に顔を揃える。“所有者”はひとりひとり、“先祖の足跡”の割り当てを歌っていく、かならず正しい順序で!
-- ブルース・チャトウィン『ソングライン』(英治出版, 2009)p.96
オーストラリアのアボリジニは、歌の中にモノとその位置を地図のように「記憶」する。歌が地域の記憶装置になるなんて、音楽バカにとってはこれ以上ないほどおもしろい話。
「記録」と「記憶」は違う。記録は残すもの、記憶は伝えるもの。そして、このふたつがうまく絡み合わないと、記憶は薄れ、記録は形骸化していくのではないかな。べつに、どうでもいいんだけどさ。
そんなことにちょいと思いを馳せつつ、「明日の夜は仙台で何食おうか」とか考えてみたりする、やや殺伐とした月曜の午後なのであった。やべぇ、支度しよ。