バシッといこうぜぃ blog

バロック音楽や弦楽合奏曲を中心にいろいろ。

 ムファットのパッサガーリャに聴く「調和の捧げもの」の響き - その1

 くにたちバロックアンサンブルの第10回演奏会で取り上げるゲオルク・ムファット「調和の捧げもの」からソナタ第5番の楽譜の準備が終わりかけている。決して注意深く作られたとは言えない初版パート譜iPadで確認しながら指示を書き入れる作業は、困難であるがゆえのおもしろさに満ちたものだったな。



 ムファット、いやムッファト(Georg Muffat, 1653-1704)はサヴォワのメジェーヴに生まれた。父はスコットランド系、母はフランスの家系なのだそうだ。10代でパリに出てジャン=バティスト・リュリの近くで6年間音楽の研鑽を積む。その後、アルザスに戻りセレスタとモルスハイムのイエズス会の学校で学んでいた際にルイ14世の軍隊が攻め入られ、1674年にバイエルンインゴルシュタットに移る。ここでは法科大学に入学するものの短期間で離れ、職を求めてウィーンに滞在した折りにパッヘルベルシュメルツァー、ケルルらの教えを受けたとされる。
 皇帝レオポルド1世の覚えはめでたかったようだが、アントニオ・ベルターリの後任にジョヴァンニ・フェリーチェ・サンチェスが楽長となっていたウィーンの宮廷では職を得ることができず、プラハを経て1678年にザルツブルク大司教のもとでオルガニスト兼宮廷音楽家の職を得る。そして1680年頃、雇い主の許可を得てローマに赴き、ベルナルド・パスクィーニのもとで研鑽を積み、鍵盤楽器を通してイタリア風の流儀を身につける。合奏協奏曲のスタイルを確立したとされるアルカンジェロ・コレッリの知遇を得たのもこの時だ。そして、長大なパッサガーリャ(Passagaglia)を含む「調和の捧げもの Armonico Tributo」を作曲したのもこのローマにおいてであった。1682年、ムファット29歳のことである。
 なんで、このようなことをだらだらと書くのかというと、彼の音楽作品にはその生い立ちゆえの想いが込められているからだ。1695年に出版された「音楽の花束 第1集 Florilegium Primum」の序文にはこうある。

「[前略] 私はしばらく前に、音楽という芸術のこの上ない練達の名人たちがいるフランスにおいて仕事を始めましたが、かの国は私に公正以上のことをしてくれました。今フランスとの戦争の時期にかの国の音楽に邪悪な判断を下すのは、ドイツ人の公平な耳の品位を落とします。[中略] 音符と弦と美しい楽の音が私の仕事であり、私はフランスの流儀をドイツと南ヨーロッパ[イタリア]の流儀に混ぜ合わせはしても、戦争を唆かすことはありません。諸国民が望む一致 [harmonie]、すなわち好ましい平和を奏でるのです。」
 ―― ニコラウス・アーノンクール著『古楽とは何か』(音楽之友社, 1997.07)p.249より

 で、ベルターリの「3声のソナタ」には、ムッファトのパッサガーリャに通じる響きが感じられるのではないかな。偶然の一致かもしれないけれど。

 もうひとつ、こっちのベルターリは本当に美しい。ムファットはこの響きも聴いたのだろうか。

 というわけで、「その2」に続く。