ジャン=ギアン・ケラス「ベンジャミン・ブリテン生誕100年バースデー・コンサート」
2013年11月22日(金)は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten, 1913-1976)がこの世に生を受けてちょうど100年目となる日。「BBC Radio 3」がその週末に掛けて特別プログラムを放送していたが、東京ではジャン=ギアン・ケラス(Jean-Guihen Queyras, 1967- )による「無伴奏チェロリサイタル」で誕生日を祝った。
- ジャン=ギアン・ケラス 無伴奏チェロリサイタル |東京オペラシティ コンサートホール/リサイタルホール
http://www.operacity.jp/concert/calendar/details/131116.php
→ Internet Archiveのキャッシュ
前半にブリテン「無伴奏チェロ組曲第1番」とコダーイ「無伴奏チェロ・ソナタ」、休憩を挟んで後半に「無伴奏チェロ組曲」の2番と3番というプログラム。ブリテンは初っぱなの第1番では冴えなかったが、譜面を置いて演奏した「第2番」で抜群の集中力を発揮、最終楽章「シャコンヌ」では音符を自在に操り第1番での不満を払拭した。ケラスの演奏はヴィブラートが少ないせいか音量が小さく、「恰幅」はそれほど大きいものではない。しかし、この「シャコンヌ」でぶれることなく一直線に結末へ向かってく音楽の展開に、他ではなかなか聴くことのできない力強さを感じたのは私だけでないだろう。当日配布されたプログラムによると、ブリテンにとって「シャコンヌ」「パッサカリア」という形式は「強拍観念的なもの、避けがたい人間の宿命といったものを象徴するものだった」とあるが、まさにそれが十全に表現されていたのではないか。
先日公開されたケラスへのインタビューに“ブリテンは20世紀のシューベルト”とあり、「ああそうだな」と妙に納得した。叶わぬことに秘められた美、届かぬ想いへの憬れ。ブリテンの作品を聴いた後に残る息苦しさは、こんなところから来るのかもしれない。少し長くなるが引用しよう。
- インタビュー:ジャン=ギアン・ケラス|東京オペラシティ コンサートホール/リサイタルホール
http://www.operacity.jp/concert/interview/131116/
→ Internet Archiveのキャッシュ
「音楽がこんなにも美しくあらねばならないなんて残酷だ。そこには孤独や苦悩の美、強さや自由の美がある。落胆や、決して満たされることのない愛の美しさ。過酷な自然の美しさ、そして永遠に続く単調さの美がある。」
すべてはここに述べられています……ブリテンの激しくかつ非常に英国的な憂鬱(メランコリー) ─ これは同じイギリスの作曲家エルガーの音楽にも見受けられますが ─ 、そして、人生のあらゆる局面における美 ─ たとえ死や死後を含む悲しい体験さえも ─ を高める彼の才能。
私がブリテンを“20世紀のシューベルト”と位置付けるのはこのような理由からです。つまり、我々に憂鬱を愛させ、絶望に希望を見出させる天才なのです。
ロストロポーヴィチが録音を拒み、スティーヴン・イッサーリスがただ1曲レコーディングしている「第3番」の最後の楽章では、主題として用いられたロシアのメロディーがそのまま出現する。そして、この曲を締めくくるリズムが静かに打ち鳴らされるのだが、その際に何かシューベルトに通じるような「やるせなさ」が密やかに立ち現れてきたのには胸を打たれた。それは天に通じるものかどうかはわからないが、「美」に裏付けられたものであったのは間違いのないところだと思う。
アンコールとして演奏されたアンリ・デュティユー「ザッハーの名による3つのストローフ」の第1曲も素晴らしかった。高度なテクニックと音楽が絶妙にマッチしていて、ブリテンの後に聴いても違和感はなかった。でも、このプログラムの中では、コダーイの作品はちょっと異質だったんじゃないのかな。どうだろ。